2013.12.24

切り忘れた青春の尻尾について雑感〜クリスマスイブの夜、BOOWYについて思うこと

さて、前回予告した「とあるアイドル」についてのお話なんだけど、事情により次回以降にさせてもらいたい。というのも前回、コンテンツタイトルである「プ~太郎」について書き込みさせてもらった。そこで今回はサブタイトルである「切り忘れた青春の尻尾」について話をさせてもらおうと思ったからである。その話を進めるにあたって、1980年代に一世を風靡した、ある伝説のバンドをお題目にさせてもらうことにする。
ここ数年、 1980〜90年代に活躍したバンドの再結成、活動再開のニュースが続いている。そのきっかけは震災の復興のためのチャリティだったり、解散後の各メンバーの活動が一区切りついたから、という理由だったりする。もちろん、お金に困ったから昔の名前で小遣い稼ぎ、というのもあるだろう。賛否両論はあるけれど、理由はともかくファンが喜ぶのならまあ、いいんじゃないかとは思う。しかし、再結成後の活動があきらかに全盛期よりトーンダウンしているのを見ると、やはり複雑な気持になる。そこまでしなくてもいいのに、と思ってしまうのも事実なのだ。
ネットでもよくある「再結成して欲しいバンド」なるアンケートで、その名前が必ず上位にあがる。しかし「再結成して欲しくないバンド」でも上位に名前があがるバンド、それが今回のお題目「BOOWY」である。正確には2つめの「O」にはスラッシュが入るのだがここではご勘弁。僕は過去のスタッフブログでもBOOWYのボーカリストだった氷室京介について取り上げたことがある。しかし今回のお題目はBOOWYそのものについて。実は僕自身はリアルタイムで彼らに熱狂した訳では無い。全ての知識は後追いなのだ。だからこそ思うところがいろいろとある。

まず最初にBOOWYの歴史を簡単に説明しておく。
1980年 共に群馬県高崎市の出身だった氷室京介(ボーカル)と布袋寅泰(ギター)が東京で出会い、バンドを結成。そこに同じく高崎市出身の松井恒松(ベース)が加入、その後に高橋まこと(ドラム)が加入し、BOOWYとなる。最初は他にメンバーを2人加えた6人編成だった。
1982年 デビューアルバムを発表するもまったく売れず惨敗。その後メンバー2人が脱退、氷室、布袋、松井、高橋の4人体制になる。
1983年 セカンドアルバムを発表するが、結果はまたしても惨敗。2枚目までアルバムが売れなかった場合、まずバンドは事務所から見離されてしまう。BOOWYもなかば追い出されるような形で事務所から契約を解除される。事務所に所属していないバンドはアルバムが出せる訳も無く、ただのアマチュアバンドと同じだ。彼らは仕方なく独立事務所を立ち上げ、アルバムが出せない分ライブ活動に力を入れていく。中古で購入したバンに楽器を積み込み、演奏できる場所があれば、それが地方のお祭りであっても出かけて行った。中古のバンはエアコンが壊れていたらしく、夏場の長距離運転は辛過ぎる。メンバーは少しでも直射日光を遮断できるのでは、と考えキッチン用のアルミホイルを車の天井に貼って運転していたという。もちろん何の効果も無いのだが、エアコンを修理するお金もままならない状態での音楽活動だったのだ。悪戦苦闘の日々ではあったが、ライブ活動を通して徐々に口コミで彼らの評価は広まっていく。
1984年 そんな彼らにユイ音楽工房が目を付け、契約を結ぶ。
1985年 再デビューアルバム(実質は3枚目となるアルバム)を発表、大きなセールスには結びつかなかったものの、好評価を得る。
1986年 4枚目のアルバム「JUST A HERO」を発表。先行シングル「わがままジュリエット」がそこそこのスマッシュヒットとなり、彼らは「夜のヒットスタジオ」でテレビ初出演を果たす。そして11月に発表した5枚目のアルバム「BEAT EMOTION」がいきなりオリコン1位を獲得、シングルカットされた「B・BLUE」「ONLY YOU」も大ヒットを記録、彼らは一躍シーンのトップに躍り出る
1987年 彼らの最大のヒット曲となった「MARIONETTE」を含む6枚目のアルバム「PSYCHOPATH」を発表、オリコン1位を獲得。しかし、この年の12月24日、渋谷公会堂でのライブ中に突然の解散宣言。
1988年 4月の東京ドームでのラストライブを持って一切の活動を停止した。

1982年のデビューから5年での解散。オリコン1位を獲得した1986年11月の「BEAT EMOTION」発売を頂点とするならば、そこからわずか1年1ヶ月での解散なのである。不遇の時代を乗り越えて頂点に立ち、名誉もお金も手に入れて、やっとこれからやりたいことが自由に出来る。そのタイミングでの突然の解散、誰もが耳を疑った。
解散の理由についてはメンバーも明らかにしていないし、どこからも正式なコメントが出されている訳ではない。だから、これから話すことはすべて僕なりの想像でしかない。誤解や思い違いもあるだろうけど、そこはどうか容赦してもらいたい。

いろいろと謎の多いBOOWYの突然の解散だが、最初にメンバー内で解散の話を切り出したのは布袋寅泰である。これは布袋本人も認めているし、実際に本当のことだろうと思われる。頂点を極めて、これからどうするかの話の中で
「このまま勢いに乗っていくことはできるが、逆にメンバーそれぞれに自分だけでやっていける道を見つけることも大切じゃないだろうか」
概ね、こんなニュアンスでの話だったようだ。具体的に「解散」という言葉が出たのかどうかは分からない。しかし「別々の道を進むべき」という提案であり、それが解散を意味することには違いない。ドラムの高橋まことの著書によると、そのとき氷室は布袋の提案に何も答えず、黙って部屋を出て行ったという。そして高橋は「氷室はもっとBOOWYを続けたかったはず」と述懐している。そもそも何故、布袋はBOOWYの休止を提案したのか。それを考えるには、当時のBOOWYの中での布袋のポジション、そして氷室のポジションを考えなければならない。

当時、BOOWYのほとんどの楽曲を作曲していたのは布袋である。さらに布袋の場合ただ作曲するだけでなく、メンバーの楽器演奏のアレンジまで事細かに決めていたという。それも布袋の勝手な判断ではなく、メンバーの個性や好みまですべて考えてのことだった。高橋は布袋の決めたドラムの演奏についての指示が「自分ならこう叩く」という意思にぴたりと合っていて何度も驚かされたという。つまり、布袋はただの作曲担当の枠を超えて、バンド全体のアンサンブルまで考えて楽曲を制作していたことになる。また、ライブにおいてもサイドギターやキーボードがいないBOOWYでは布袋の役目は大きい。カッティングからソロまで、ほぼ一人で音の厚みを創り出さなければならないし、ただ演奏するだけでなく客を引き付けるアクションやパフォーマンスも必要になる。
また、バンドのビジュアル面でも布袋はいろいろとアイディアを繰り出した。布袋はもともと、デビッド・ボウイやロキシー・ミュージックといったモダンで先鋭的なヨーロッパ系のロックに大きな影響を受けている。だからTシャツにジーンズでステージに立つ、というスタイルは彼の中ではあり得ないのだ。常に洗練され、スタイリッシュでなければならないと考えていたのである。BOOWYはステージ衣装にJ・P・ゴルチエのスーツをよく使っていた。これも布袋のアイディアで、彼は人気の出るかなり前に、自らゴルチエのオフィスに押し掛けて、BOOWYがいかに可能性があるバンドかを熱心に説明し、ちゃっかり衣装提供の話をまとめてきている。そしてBOOWYといえば髪の毛を逆立てた独特のスタイルが印象的だが、これも布袋の発案だ。しかも、初期の頃は専属のスタイリストとかもいないから、布袋がスプレーを使ってメンバーの髪を逆立てていたらしい。彼が自分の髪を逆立てるのはその後になるため、ステージに向かうのはいつも最後になっていたという。
こうしてサウンド面、ビジュアル面ともにBOOWYを支えていた布袋なのだが、当時のライブの様子を見るとどうだろうか。ステージ上で圧倒的な存在感を発揮しているのはやはりボーカルの氷室京介なのである。もちろん、ボーカリストだから目立つのは当然だし、氷室が恵まれたルックスを持っていたことも大きい。しかも、急激なブレイクのせいでそれまでのマニアックなファンを上回る新しいファンが殺到する。その中心となったのはやはり若い女性ファンである。そして彼女らの注目が氷室に集まってしまうのは仕方が無いことだ。布袋も当時を振り返り「誰も俺のギターなんか聴いていないじゃないか」と思ったと告白している。

BOOWYの楽曲の魅力、それは誰もが口ずさめるポップで覚えやすいメロディーだったことだ。硬派なロックにこだわるあまり、ポップになることを良しとせず、結局マイナーなままで終わったバンドは当時多かった。例えばルースターズ、ARB、アナーキーといったバンドはそれぞれ実力はあったし、一部の熱狂的なファンは獲得していたが、メジャーシーンであるヒットチャートにその名前が出ることは無かった。前述のように、布袋は不良の延長のような硬派なロックを指向していなかった。もっと柔軟にロックを捉えていたのだ。それは現在の布袋のジャンルを超えた幅広い音楽活動につながっている。
そしてもう一つが氷室京介の存在だ。氷室のボーカルは、ビートにまかせてのシャウトではなく、メロディーを活かすことのできる上手さと声質が特長である。これは布袋も認めていて「彼のボーカルに合わせてギターが一緒にメロディーを歌う感じ」と表現している。聴く人を限定するような硬派でマニアックなものではなく、誰もが楽しめるロックサウンド。それも女性を中心とした新規ファンの拡大を後押しする。

しかし、布袋が最も敬愛するミュージシャンはデビッド・ボウイ。その魅力は常に変化する音楽性にある。ポップになったかと思えば、理解しがたいような難解でシュールなものになったり、常にファンの想像を超えてゆく大胆な変化こそがその魅力なのである。もちろん布袋の目指すところもそこあったはず。ところがBOOWYは短期間に急激にブレイクしてしまった。多くの利権や思惑が入り込んでくる。売れない時代のように、自由で突飛な発想を提案することもままならなくなる。周囲がBOOWYに求めるサウンド、それは彼らを成功に導いた氷室京介のボーカルを活かしたポップで覚えやすいサウンドでもある。そしてルックス面での人気も相まって、どうしても氷室を前面に押し出すことになる。
現在はともかく、当時、バンドといっても花形はやはりボーカリストである。布袋はBOOWYでテレビ出演した際、テレビ局のスタッフに「ボーカリストとバンドさん」という呼び方をされ、結局そんな認識しかされていないのかと落胆したことがあったらしい。
このままだと自分はいつまでたっても氷室京介のバックメンバーの一人でしかいられないのでは無いか。そんな焦りが布袋を襲っていたのではないかと思うのだ。それでもビジネスとして考えればBOOWYとしての成功は手に入る。しかし、当時布袋は24か25歳である。しかもBOOWYの急激なブレイクに伴い、彼の音楽家としての才能も急激な勢いで開花していった。自分の中にわき起る様々なアイディア、これもやってみたい、あれもやってみたい。敬愛するデビッド・ボウイのように、ファンの期待や想像を上回るような音楽を創り出したい。その思いはビジネスとしての成功などと引き換えられるようなものでは無かった。もちろん、BOOWYとしての活動を少し休めて、個人的なソロ活動をしてみる、という選択肢も無くはない。しかし、戻る場所を予め決めておくといった保険をかけるようなやり方を当時の布袋が望んでいたとは思えない。やるならオールorナッシングだ。さらに、周囲の人間の期待を考えれば、人気絶頂のBOOWYの活動を一時的にしろ休止することは許されなかったことは容易に想像できる。布袋にとってそんな焦りや不満が、やがて氷室に対するジェラシーや対抗心に変わっていったとしても不思議は無い。
氷室はそんな布袋の心境も十分理解していたのだろうと思う。だからこそ、布袋から解散の提案が出たときも、それに対する明言を避けたのだろうと思うのだ。バンドというものは決して一人で成り立つものでは無い。フロントで目立つ人もいれば、それをバックで支える人もいる。BOOWYの今後に対して、もう一度全員で腹を割って話してみよう、そのためにも少し距離をとってみよう。氷室は彼なりにそんな希望を持っていたのではないだろうか。ところが布袋はその間、意外な行動を取ってしまう。

布袋は当時、女性ロックシンガーの山下久美子と結婚しており、彼女の楽曲制作やプロデュース、ライブでのサポート活動などを手掛けていた。布袋は山下久美子のライブツアーのバックメンバーに、ドラムとして高橋まことを誘ったのだ。高橋が詳しく話を聞くと、ベースの松井恒松にも声をかけているという。高橋は驚いてその話を留保した。このままだと、BOOWYの4人のうち3人が山下久美子のツアーに参加することになる。氷室はボーカルだからバックバンドに参加できないのは仕方ないとしても、端から見ればどうしても「3対1」の構図になってしまう。ここぞとばかりメンバーの不仲説を書き立てるマスコミも出てくるし、そんなものが世に出ればファンを不安にさせるだけにしかならない。この大事な時期に、そんなことは避けるべきだ。高橋はさすがメンバー最年長だけあって大人の対応をした。
しかし、それが人を介して氷室の耳に入ってしまったのだ。そのタイミングで氷室は解散の意見に合意したと伝えられている。布袋がどんな思いを持って山下久美子のバックとしてBOOWYメンバーに声をかけたのかは分からないし、それが氷室の解散合意の理由なのかどうかは分からない。しかし、その一件を持って氷室と布袋の関係に何らかのズレが生じてしまったのは事実のようだ。というのもそれ以来、氷室と布袋が直接会話する機会がほとんど無くなってしまったという。高橋まことの記憶によると何らかの決め事がある場合、氷室と布袋が直接意見を交わすのでは無く、高橋が間に入ってお互いの意見を伝え合っていたという。高橋は両者に何度も「それはよくない」と忠告したらしいが、話は聞き入れられなかった。そして1987年の12月24日、渋谷公会堂、彼らが解散を表明した伝説のライブを迎えるのである。

実はこの日のライブでファンに解散を表明することは決まっていたのだが、それをどの段階で、どんな言葉で報告するか。それは氷室にすべて委ねられていたという。当日、会場はソールドアウト、それでもチケットを入手できなかった多くのファンが会場を取り囲む。ただならぬ緊張感の中、ライブは進行していく。熱狂の内に本編が終了し、アンコールに突入する。アンコールの1曲目が終わっても、氷室は何も語らない。アンコールでは2曲が披露される予定だったから、チャンスはもう次の曲でしかない。この日のライブは映像化されることが決まっていたため、カメラが回されていた。アンコール1曲目が終わって、一旦控え室に戻るメンバーをカメラが追いかける。控室内、椅子に腰掛けるメンバーもいれば、煙草に火を付けるメンバーもいる。そんな中、一人席を立つ氷室。それは通常のひと休み時間より短かったのだろう、驚いて後を追うメンバー。ステージへと向かう廊下を一人歩く氷室の表情をカメラが捉える。その表情は険しく重い。そしてステージ上にメンバーが揃い、氷室が口を開き、初めてバンドの今後について言及した。
氷室はここで「メンバーがそれぞれにできる音楽をやっていく」という言葉を使っている。そこには解散という文字は無い。そして話しながら何度か左後ろに位置する布袋の方を振り返っている。この様子を背後のドラムセットから見ていた高橋まことはこう話している。
「あのとき、もし布袋が氷室と目を合わせていたら、氷室はその場で解散を撤回していたと思う」
だからこそ解散という言葉を使わなかったのだと。もし布袋が目を合わせてくれたら、一瞬でも意思が通じ合えたなら、氷室はBOOWYを続けていけると考えのだろう。
しかし、布袋は氷室に背を向け、腕組みをして口を開かない。カメラが捉える布袋の表情からは何かを必死に堪えているように見える。
「俺はもう決めたんだ、後戻りはできないんだ。ここで振り返る訳にはいかないんだ」
その表情からは布袋のそんな叫び声が聞こえてきそうだ。そして目に涙を浮かべて布袋の背中を見つめる氷室。何度見ても息が詰まるような数十秒間。それはBOOWYの歴史にピリオドが打たれることが決定的になった数十秒間である。1987年12月24日クリスマスイブの夜のことだった。

彼らは翌年4月に東京ドームにてラストライブを行っているが、以後、今日に至るまでBOOWYとしての活動は一切無い。その間メンバー同士の交流がまったく無かった訳ではない。氷室のステージに高橋まことが飛び入りしたり、布袋のライブツアーに松井恒松が参加したりの事実はある。しかし、氷室と布袋はステージ上での共演はおろか、公式の場で写真に収まったことすら無い。BOOWYの解散後は二人共にソロミュージシャンとして大成功を収めているし、最近の若い人の中には二人がバンドを組んでいたことすら知らない人も多い。それでも毎年のようにメンバー達が関与していないところで企画物のCDやDVDが発売され、それなりのセールスを上げている。そしてその度に出ては消える再結成を希望する声。
その機運が最も盛り上がったのは2011年の大震災のときのこと。今こそBOOWYを再結成し、チャリティライブを行うべきだという声である。莫大な収益金が望めるのはもちろん、20数年に及ぶファンの思いが叶うということが復興への希望につながること、そして氷室と布袋が再び手を結ぶことこそ何よりの「絆」を生むことにつながるという声である。しかしその年の6月、東京ドームで氷室は単独で全曲BOOWYでのチャリティライブを行った。それを受けて布袋もブログ上でコメントを発表、自身がBOOWY再結成を望んでいたことを告白している。布袋が望んでいる以上、BOOWY再結成は氷室の返事次第、ファンの誰もがそう確信した。しかしこのタイミングで氷室は単独でのライブを決行してしまったのでる。それも他メンバーには一切声をかけていなかったことから、理由はどうあれ氷室自身がBOOWY再結成をまったく考えていなかったことが想像できる。
氷室と布袋の間には、まだ壁がある。決して消えることの無い確執がある。多くのファンはその思いを強くした。果たして二人はどう考えているのだろうか。

震災が起こる1ヶ月程前のこと、布袋は音楽活動30周年を記念してのライブを自身が50歳になった誕生日の2月1日に日本武道館で行っている。キャリアの集大成の意味を込めて、懐かしいBOOWY時代の楽曲も多く演奏された。その中で1曲、ファンが驚く選曲があった。それは「Cloudy Herat」という一曲。前述のように、BOOWYの楽曲の大半は布袋の作曲である。しかし、この曲は氷室の作詞・作曲による作品。この日、演奏された多くの曲の中で唯一、自分以外の作曲作品だったからである。この曲の中にこんなフレーズがある。
Cloudy Herat 傷つけてばかりだったけど
Cloudy Herat お前だけを愛してた
この歌詞からも分かるように、男女の別れを歌った曲である。恋愛中はわがままを言って恋人を困らせ傷つけていた主人公が、いざ彼女が去った後に深い自責の念にとらわれる。氷室が無名時代、同棲していた彼女との別離を歌ったものだとも伝えられている。BOOWY解散後、この曲を布袋は一度もステージで演奏したことは無い。だからイントロが流れたとき、観衆は大きくどよめいた。しかし、さらにファンを驚かせることが起こった。
歌いだしのタイミングになっても布袋は口を開かなかった。ただ黙ってギターだけを弾き続ける。代わりに観衆が一斉に歌い始める。布袋は目を閉じたまま武道館を満たすファンの歌声をじっと聴きながら、淡々と演奏を続ける。そして最後まで一度もマイクに向かうことは無かった。「Cloudy Herat」は確かに男女の別れを歌った曲。しかし、幸せなときにはそれに気づかず、それを失ったときに本当に大切だったものは何かを知る。それは男女の恋愛に限ったことでは無い。あの日、振り返れなかった自分、氷室の思いに背を向けてしまった自分、そんな思いを布袋は曲に重ね合わせていたのでは無いだろうか。「Cloudy Herat」のボーカルを1フレーズたりとも歌わなかった布袋。それはいつかは自分の横で氷室に歌って欲しいという思いの現れだったような気がするのだ。
「Cloudy Herat」についてはもうひとつ、気になることがある。2003年のこと、氷室はソロ活動15周年を記念してベストアルバムを発表した。その中で、BOOWY時代に自分が作詞作曲を手掛けた曲を3曲、セルフカバーしている。その中の1曲が「Cloudy Herat」なのだが、ピアノだけをバックにした弾き語りスタイルにアレンジされていた。つまりギターを入れていないのである。これを布袋以外のギタリストが弾く「Cloudy Herat」を音源として残したくないという氷室の意思だったと思うのは勝手な想像だろうか。

BOOWYを結成したばかりの頃、布袋と氷室は寝食を忘れて連日、安アパートで共に曲作りに取り組んだ。腹が減ればカップラーメンを分け合って空腹を満たし、食べ終わると容器を灰皿代わりにまた曲作りに没頭する。世間に自分たちの音楽を知らしめる、その夢だけあれば良かった。しかし、いざ成功を手に入れると今度はアーティストとしての自我が首をもたげてくる。もちろん、それはアーティストの宿命であり本能である。そしてそれは時に人を傷つけ、友情を破壊する。
布袋は山下久美子と1997年、離婚している。12年間の結婚生活。破局の理由については、布袋が後に再婚することになる今井美樹との不倫、略奪愛だったとも言われている。確かに山下久美子の自著を読むと、そう思わせる記述もある。しかし、その著書には、今井美樹と関係なく布袋との夫婦生活が徐々に壊れていく様子も生々しく語られている。
結婚当初、山下は女性ロックシンガーとして既に大スターの地位を確立していたが、BOOWYはまだ一部ファンにしか名前を知られていない状態だった。布袋との結婚は今で言う「格差婚」だったのだ。布袋は山下との交際中のエピソードとしてこんなことを語っている。二人で寿司店に行った際のこと。布袋はウニが食べたかったのだが値段が高いのではと不安になり、頼むのをためらったという。それくらい二人の間には「格差」があったのだ。山下はいつも古着を身に付けていた布袋が、それでもギターをかき鳴らしながら音楽を熱く語る姿を見るのが好きだったという。しかし、結婚の後BOOWYは急激にスターの座へ登りつめていく。それに伴い、布袋の音楽家としての才能も一気に花開く。ウニを頼むことすら躊躇していた無名の青年がビッグアーティストへ変貌していくのを山下はただ見守るしか無かった。
しかし、山下久美子もまたアーティストだった。彼女自身、その自我もある。アーティストとしてどんどん差が付いていく布袋との距離。それは時に焦りになり、不安要素になる。布袋もまた急速に成長していく自分の才能に戸惑い迷う中で、多くのストレス、プレッシャーを抱える。やがて二人はその行き場の無い感情をお互いにぶつけ合うようになってしまう。繰り返される争いごと、それは時に暴力沙汰にまでエスカレートすることもあったという。お互いに相手を尊重し、譲り合い、受け入れ合うという結婚の本来の意味を分かることなく、二人の夫婦生活はやがて終焉を迎えることになった。

「結婚ということの意味をまったく分かっていなかった」布袋は山下との結婚生活についてこう振り返っている。
布袋の現在の夫人である今井美樹も現役のシンガーである。二人の間には小学生の娘さんが一人いる。今井がライブツアーに出て不在の時は、布袋が朝食を作り、娘さんのお弁当も作るという。それはミュージシャン夫婦でなくとも、共働きの夫婦であればよくある風景である。お互いの立場を理解し、助け合う、そんな結婚の意味を布袋は改めて知ったのだろうか。山下との結婚生活はそれを理解するための犠牲だったのかも知れない
バンドもまた同じだ。個性の違うメンバーが集まり、お互いに足りないところを補い合い、役目を果たすことで活動が継続される。しかし若さという無限大のエネルギーを持って膨張する自我は、やがてエゴイズムとなって制御ができないまま暴走してしまう。青春という輝かしさの中に生まれる、どうしようもない蹉跌。それは時として一生埋めることのできない溝、決して治癒することのない傷跡となる。だからこそ切なく、罪深い。

GLAYやMr.Childrenのように、プロフェッショナルとして活動を維持し、長きにわたりファンを満足させるバンドも素晴らしい。サザンオールスターズやラルクアンシエルのように、メンバーのソロ活動や休止期間をバランスよく取りながらバンドとしての形を継続させるのも素晴らしい。しかし、まるで夏の夜の花火にように瞬間に輝き、若さゆえの感情のズレから砕け散ってしまったBOOWYもまた「バンド」ならではの人間味にあふれていると思うのだ。それは人生と同じ、とてつもなくはかなく危うい。
嫌なものをスパッと断ち切ること、人はそれを「トカゲの尻尾を切る」と例える。しかし、切りたくても切れない尻尾もある。青春時代の忘れてしまいたい過ち、断ち切りたい罪、そんな思いが切ることもできないまま心に深く残る。しかし、例え間違いであったとしても、後悔することであったとしても、一度は夢見た思いである。あらゆるものを犠牲にしても叶えたい願いだったはずである。切ることができないまま尻尾を抱え、それでも意地を張りながら生きていく。そんな不器用な生き方もあってもいいと思うのだ。

布袋と氷室が和解して欲しい、BOOWYの再結成までは望まなくても二人が同じステージに立つ姿を一度でもいいから見てみたい。そう願うファンも多い。もちろん、二人の不仲説や確執が今もって続いているかどうかの確証は無い。しかし、二人の中に切り忘れた尻尾が今も残っていること、そして一生切らないと心に決めていること、それが彼らなりのケジメなのかも知れないとも思ってしまう。
BOOWYという名前を口にするとき、その楽曲の魅力はもちろんだが、どこか切ない、やるせない響きを感じてしまう。それはBOOWYが辿った運命、そして氷室と布袋のその後の生き様が人の心を打つからである。「バンド」がただの音楽家集団ではなく、人生そのものだということ。それは決して明るく輝かしいだけでは無いということ。BOOWYを通じてそれを知るからである。
これを書き込む今日、12月24日は彼らが解散宣言した渋谷公会堂から数えて26回目のクリスマスイブである。BOOWYと共に青春時代を過ごした人たちにとっては少しだけ苦い思い出の残るクリスマスイブになるのだろうか。そして今日、布袋も氷室もあの夜のことを心のどこかで思い返すのだろうか。多くの人が切り忘れた青春の尻尾を、愛おしく切なく思い返す。そんなクリスマスイブになるのだろうか。

相も変わらずえらく長い話になってしまった。最初はもっと短くまとめるつもりが、あれもこれも、てな感じでどんどん膨れ上がってしまった。最後まで付き合って下さった方にはホントに感謝しかない。BOOWYのことをよく知らない人もいるだろうし、そのあたり考慮して書いたつもりではいる。何とかうまく伝わってくれれば嬉しいのだけれど。後、最初に書いたように残念ながら僕はBOOWYについてはリアルタイムで熱中してはいなかった。だから文章の中には憶測や誤りも多いと思う。彼らの熱心なファンからすれば見当違いの意見もあるかも知れないけれど、そのあたりは了承してもらいたい。
狙った訳では無いけれど、今日はクリスマスイブ。BOOWYファンにとっても特別な思いがあるだろうクリスマスイブに、今回の文章を書き込めるのも何かの縁かも知れない。実はイブつながりでもうひとつ、ちょっとした思い出話がある。次回はそのお話をさせてもらいたいと思っている。当初はイブに間に合わせるつもりだったのだが、ちょっと残念。でも何とか今年中には書き込むぞっと。(汗)

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